2011年10月13日
私の半分は関西人
私が学生時代に急逝した父は、関西出身の、典型的なコテコテの関西人でした。
父にかかるとどんな話題でも全て吉本興業になってしまい、我が家は常に笑いに包まれていました。
そんな関西人の父と三河人の母との間に生まれた私の半分は、紛れもない関西人。
という訳でもないのですが、かなり小さな頃から、進学するなら関西、いや、関西以外は絶対に考えられないといった感じでした。
それから10ウン年経ち、幼い日の夢叶った私は、晴れて京都の大学生となり、父譲りの関西弁マシンガントークを駆使し、すっかり関西の土地に溶け込んでゆきました(父の薫陶の賜物か、私を愛知県民と見破る人間は皆無でした)
関西のコテコテ文化にどっぷり漬かった私は、両親にも友人にも、私は関西で就職し、関西に永住し、本物の関西人になると宣言するまでになっていました。
しかし世の中、一寸先は闇で、そんな矢先、一番の理解者であった父が急逝し、私の人生設計は、大いに狂ってしまいました。
やがて父の急逝で憔悴しきった母のことや、母校の教授の紹介もあり、大好きな関西の地でやりたかった児童福祉の道を断念し、思いがけず静岡の企業へ就職することになりました。
京都を去る日、新幹線の車窓から、遠ざかる京都の街の風景を、いつまでも々涙目で見つめ続けましたねぇ…。
(´ω`)シミジミ。
私を関西に誘った関西人の父は、現在、母の実家のある田原のお寺で眠っています。
そして私は、二度と帰ることのないであろうと思っていたこの地で、生きています。
父にかかるとどんな話題でも全て吉本興業になってしまい、我が家は常に笑いに包まれていました。
そんな関西人の父と三河人の母との間に生まれた私の半分は、紛れもない関西人。
という訳でもないのですが、かなり小さな頃から、進学するなら関西、いや、関西以外は絶対に考えられないといった感じでした。
それから10ウン年経ち、幼い日の夢叶った私は、晴れて京都の大学生となり、父譲りの関西弁マシンガントークを駆使し、すっかり関西の土地に溶け込んでゆきました(父の薫陶の賜物か、私を愛知県民と見破る人間は皆無でした)
関西のコテコテ文化にどっぷり漬かった私は、両親にも友人にも、私は関西で就職し、関西に永住し、本物の関西人になると宣言するまでになっていました。
しかし世の中、一寸先は闇で、そんな矢先、一番の理解者であった父が急逝し、私の人生設計は、大いに狂ってしまいました。
やがて父の急逝で憔悴しきった母のことや、母校の教授の紹介もあり、大好きな関西の地でやりたかった児童福祉の道を断念し、思いがけず静岡の企業へ就職することになりました。
京都を去る日、新幹線の車窓から、遠ざかる京都の街の風景を、いつまでも々涙目で見つめ続けましたねぇ…。
(´ω`)シミジミ。
私を関西に誘った関西人の父は、現在、母の実家のある田原のお寺で眠っています。
そして私は、二度と帰ることのないであろうと思っていたこの地で、生きています。
この記事へのコメント
この先、楽しみに成って来ました。プラネッツ期待して、おります。母さんによろしく、賑やかになりますよ。
Posted by エイチおじさん at 2011年10月14日 11:42
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